得と失代償トレードオフ舍得 (しゃとく)塞翁が馬人生哲学趣味と仕事中国のことわざ選択と犠牲経済成長

得ることは、必ず失うこと

何かを得るたびに、実は何かを失っている——なぜその代償は後からしか見えないのか。経済成長の裏側、バズった後のコスト、趣味が仕事になった瞬間に消えるもの。「舍得(しゃとく)」が教える人生の交換条件。

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「舍得(しゃとく)」と書かれた中国の書道——「捨ててこそ得る」の意味を持つ二字

今日YouTubeで政経孫先生の動画を見た。タイトルはざっくり言うと「日本経済の苦境がアジア全体に影響し、人口構造の変化が三つの危機を生む。なぜアジア諸国は『後発の不利』に陥るのか」というものだった。

動画の中で印象に残った視点がある。一部のアジア諸国は欧米に追いつくため、急速な都市化・工業化・近代化によって経済の高度成長を実現した。しかしその急成長の裏には、当時はまだ見えにくかった代償が埋め込まれていた。その一つが人口構造の変化と出生率の低下だ。

もちろん、この見方自体にも議論の余地は多い。少子高齢化を「欧米に学び、都市化した」の一言だけに帰結させるのは単純すぎる。経済発展、教育の普及、住宅コスト、女性の就業、結婚観・出産観、社会保障——これらすべてが絡み合って出生率に影響している。

でも本当に興味を引かれたのは、この主張そのものよりも、それがずっと昔にぼんやりと悟った、あることを再び思い出させてくれたことだ。

何かを得れば、必ず何かを失う。

多くの場合、何かを得ているそのときには、自分が何を失いつつあるのか気づかない。

しかも失ったものに気づくのは、何年も経ってからだったりする。


一、経済発展の裏にも代償は潜んでいる

経済的に遅れている国にとって、最も重要な目標は何か。

もちろん発展だ。

都市を建設し、高速道路を敷き、工業を発展させ、生産効率を上げ、より多くの人を都市へ集め、より良い暮らしを送れるようにする。

これ自体は間違っていない。

問題は、どんな発展モデルにも副作用があるということだ。

農業社会から工業社会へ急速に移行すると、大量の人口が農村から都市に流入し、教育水準が上がり、女性の就業率が上がり、若者たちはより良いライフスタイルを追い求めるようになる。すると結婚や出産の時期が自然と後ろ倒しになり、子どもを持ちたいという意欲も下がりやすくなる。

でも当時の人々の目に映るのは、たいてい目の前の利益だけだ。

街はどんどん綺麗になっていく。
給料はどんどん上がっていく。
生活はどんどん便利になっていく。
一人当たりの所得はどんどん上がっていく。

数十年後、これらの変化が社会全体の人口構造を逆に変えてしまうかもしれないと想像する人は、ほとんどいない。

これはとても興味深い問いを投げかける。

私たちが今「進歩」だと思っているものは、未来のある問題の出発点でもあるのではないか?

これは発展そのものが間違っているという話ではない。

つまりこういうことだ。

どんな選択にも機会費用がある。どんな獲得にも、何らかの喪失が伴いうる。

ただ、その代償を支払うタイミングが違うだけだ。その場で支払うものもあれば、数十年後になって初めて姿を現すものもある。


二、「捨ててこそ得る」を初めて本当に理解したのは、バズって以降だった

実は数年前、私はすでにこの道理をぼんやりと理解していた。

その頃、私は抖音(TikTok中国版)で映画・ドラマの編集動画を作っていた。

最初は、これでお金を稼ぐなんて考えてもいなかった。

純粋に趣味だった。

好きな映画やドラマを見て、気に入ったシーンを編集して投稿する。それだけだった。

当時はプレッシャーなんて何もなかった。

更新しろと言ってくる人もいない。

広告主が声をかけてくることもない。

いわゆる「バズらなきゃ」という焦りも一切なかった。

ただ純粋にこう思っていた。

この動画、編集したいな。

だから編集した。

その後、作品の数が増えるにつれ、フォロワーもどんどん増えていった。

そしてある時、一本の動画が突然バズった。

その一夜で、フォロワーが40万人以上増えた。

最終的にフォロワー数は90万人を超えた。

すぐに広告主から声がかかるようになった。

映画やドラマ、各種動画配信サービスの宣伝をしてほしいと。

純粋な趣味人間から、作品でお金を稼げる人間へと、突然変わってしまった。

一般的な感覚で言えば、

これって、とんでもなくラッキーなことじゃないか?

当時の私もそう思っていた。


三、趣味がお金になった瞬間、趣味そのものが消えていった

でも次第に、事態は変わっていった。

以前の私が動画を編集していた理由は、

この動画を編集したいから。

それが後には、

この動画は稼げるだろうか?

に変わっていった。

以前はこう思っていた。

このシーン、すごくいい感じだ。

それが後には、

このジャンル、バズる要素があるか?

以前気にしていたのは、

作品として面白いかどうか。

それが後には、

再生数はいくつだ? フォロワーは何人増えた? 広告料はいくらだ?

趣味が収入源になった瞬間、お金は手に入ったが、最初の情熱を失ってしまった。

これは当時、まったく予想していなかった代償だった。

さらに皮肉なことに、再生数を気にすればするほど、再生数はどんどん落ちていった。

作品はどんどん「仕事」らしくなり、逆に「作品」らしさを失っていった。

最終的に編集で稼げるお金もどんどん減り、私はこの道を完全に手放した。

今振り返ると、この経験はむしろとても価値があったと思う。

なぜならそれを通じて初めて、こう本当に理解できたからだ。

何かを得たからといって、人生はそこから増える一方で、減ることはないというわけではない。

お金を得れば、情熱を失うかもしれない。

名声を得れば、自由を失うかもしれない。

安定を得れば、冒険する機会を失うかもしれない。

友人をたくさん得れば、一人の時間を失うかもしれない。

結婚を得れば、自由の一部を失うかもしれない。

自由を得れば、安定の一部を失うかもしれない。

人生は加点され続ける成績表ではなく、絶えず交換され続ける請求書のようなものだ。


四、外向的な人の方が本当に得なのか

以前の私はこう思っていた。

外向的な人の方が、内向的な人より必ず有利だ。

なぜなら外向的な人は、

  • 話すのがうまい
  • 友人を作りやすい
  • 集団に溶け込みやすい
  • 明るく見える
  • 人間関係も良好そうに見える

友人からこう勧められたこともある。

休みの日はもっと外に出て遊びなよ、一人で家にこもってばかりいないで。

最初はもっともだと思った。

自分ももっと外向的になるべきなんじゃないか。

一人で家にこもってばかりいるのは良くないんじゃないか。

もっと多くの人と知り合えば、人生はもっと豊かになるんじゃないか。

でもやがて気づいた。

これもまた「他人が持っているものの方が良いに違いない」という思い込みに陥っていただけだった。

外向的な人は、たしかに社交能力に長けている。

でもその分、より多くの時間とエネルギーを社交に使うことになる。

そして一人が持てる時間とエネルギーには限りがある。

友人と3時間おしゃべりすれば、その分、一人で過ごし、読書し、学び、考える時間が3時間減る。

これは外向的であることが悪いという話ではない。

むしろ外向性は、とても貴重な能力だ。

ただそれにも代償があるというだけだ。

内向性も同じだ。

内向的な人は社交が苦手で、友人が少なく、賑やかな場が好きではないかもしれない。

でもその分、一人の時間をより多く持てる。

読書し、学び、考え、一つのことに長く集中できる。

だからようやく、こう理解できるようになった。

外向性は内向性の上位互換ではないし、内向性は外向性の欠陥版でもない。

それらはただ、異なる生き方の二つの形にすぎない。

本当に大事な問いは、

「どちらの性格がより優れているか」

ではなく、

「どちらの生き方が自分に合っているか」

だ。

そう理解してから、無理に自分を変えようとしなくなった。


五、手放せなかった恋も、今では去ってくれてよかったと思える

若い頃、初恋の相手がいた。

20歳過ぎで知り合い、1年ほど付き合い、いろいろな事情で別れた。

当時は本当に辛かった。

そこから立ち直るのに何年もかかった。

当時の自分は、

彼女を失うことは、人生における大きな不幸だ

と思っていた。

でも時間を長く取って、今の自分から振り返ると、むしろ少しほっとしている。

もしあの時別れず、あの恋がそのまま結婚に進んでいたら、今の人生はまったく違うものになっていただろう。

家庭があり、子どもがいて、住宅ローンがあり、様々な責任を抱えていたかもしれない。

そういう人生もきっと良いものだっただろう。

でも少なくとも、それは今の自分ではなかったはずだ。

日本には来ていなかっただろう。

改めて日本語を学び直すこともなかっただろう。

自分のキャリアを見直すこともなかっただろう。

自分が本当にどんな人生を送りたいのか、じっくり考え直す機会もなかっただろう。

ましてや30代でもう一度人生をやり直すチャンスもなかっただろう。

だから、当時あれほど自分を苦しめた出来事も、今振り返ると、

それは喪失とは限らず、別の形の獲得だったのかもしれない。

これはまさに、古くから中国人が言ってきたことだ。

塞翁が馬。

ただ若い頃は、たいてい「失ったもの」しか見えない。

時間が経ってようやく、

あの時の喪失が、今の自分に一本の道を残してくれていた

ことが見えてくる。


六、本当に怖いのは喪失そのものではなく、それが何を意味するか分からないことかもしれない

人生で一番難しいのはここだ。

もし何かが、

「今これを失えば、いずれもっと良いものが手に入る」

とはっきり教えてくれるなら、そこまで苦しむことはない。

本当に辛いのは、

自分がなぜ失ったのか分からないことだ。

失恋したときも分からない。

失業したときも分からない。

チャンスを逃したときも分からない。

何かを諦めたときも分からない。

時にはある選択をしてから何年経っても、それが正しかったのか間違っていたのか分からないままだったりする。

だから私たちはよくこう自問する。

「あのときこうしていなければ、もっと良かったのだろうか?」

でもこの問いには、そもそも答えがない。

なぜなら、私たちは二つの違う人生を同時に生きることはできないからだ。

一つの道を選んで、そのまま歩いていくしかない。


七、だから私は「捨ててこそ得る」という言葉を、ますます信じるようになった

「捨得(しゃとく)」——捨てることと得ること、という言葉はとても面白い。

それ自体がすでに一つの矛盾を含んでいる。

捨てることと得ることは、もともと同時に存在している。

自由を得たければ、安定の一部を手放さなければならない。

成長を得たければ、快適さを手放さなければならない。

新しいチャンスを得たければ、古いものの一部を手放さなければならない。

一人の時間を持ちたければ、友人が減ることを受け入れなければならない。

キャリアを持ちたければ、生活の一部を犠牲にするかもしれない。

家庭を持ちたければ、個人の自由の一部を犠牲にするかもしれない。

すべての良いものを同時に手に入れられる人生など存在しない。

本当に成熟した人とは、最も多くを持っている人ではなく、自分が何を手放せるかを知っている人なのかもしれない。


八、こうした道理の多くは、実はずっと前から知られていた

面白いのは、これらの道理は何も新しい思想ではないということだ。

何千年も前から、中国人はすでにこう言ってきた。

塞翁が馬。

こうも言ってきた。

魚と熊の掌(たなごころ)、両方は得られない。

こうも言ってきた。

捨ててこそ得るものがある。

仏教ではこう説く。

得失は縁による。

西洋にも似たような考え方がある。

すべてを手に入れることはできない。

これらの言葉が何千年も語り継がれてきたのは、決して奥深い理論だからではない。

そうではなく、

人類がずっと同じことを繰り返し経験してきたからだ。

失恋が新しい始まりをもたらしうることは、みんな知っている。

でも本当に失恋したときは、それでも辛い。

失敗が成長をもたらしうることも、みんな知っている。

でも本当に失敗したときは、それでも落ち込む。

何かを得るには代償が必要だということも知っている。

でも本当に手に入れたときは、その代償をすぐ忘れてしまう。

道理を知っていることと、本当にその道理を理解していることは、まったく別のことだ。


九、本当の理解とは、道理と自分の人生をつなげること

以前は「塞翁が馬」という言葉を見ても、

ふうん、故事成語だな

としか思わなかった。

自分の恋愛経験を経て初めて、本当に理解できた。

以前、誰かに「趣味をお金儲けの道具にするな」と言われても、

少し大げさだと思っていたかもしれない。

自分が実際にお金のせいで趣味を失って初めて、その意味が分かった。

以前、誰かに「一人で生きていくのも悪くない」と言われても、

完全には信じきれなかったかもしれない。

自分が本当に一人の時間を好きになり、そこに満足を見出せることに気づいて初めて、それを受け入れられた。

だから今、ますますこう思う。

人生の本当の成長とは、知っている道理の数を増やすことではなく、自分の経験が少しずつその道理を裏付けていくことなのかもしれない。

本の中の一文が、ある日突然、自分が経験した出来事と重なる。

何年も分からなかった問いが、何年か経って突然分かるようになる。

かつて災難だと思っていた出来事が、実は自分の人生の方向を変えていたと気づく。

かつて必死に欲しがっていたものが、実はそれほど重要ではなかったと気づく。

これこそが本当の意味での「悟り」なのかもしれない。


十、収穫だけで代償のない人生など存在しない

今振り返ると、私はますます単純に、

この選択は良かったか悪かったか

と評価したいと思わなくなった。

なぜなら、どんな選択にも二つの面があるからだ。

経済の急成長には収穫もあれば代償もある。

都市化は生活効率を上げる一方、人口構造を変えてしまう。

外向性は社交能力をもたらす一方、一人の時間を減らすかもしれない。

内向性は独立した思考をもたらす一方、人とのつながりを減らすかもしれない。

お金を稼げば自由が手に入る一方、趣味が仕事になってしまうかもしれない。

恋愛は寄り添いをもたらす一方、責任も意味する。

独身は自由をもたらす一方、孤独も意味する。

安定は安心をもたらす一方、変化への勇気を失わせるかもしれない。

冒険は新しい可能性をもたらす一方、失敗をもたらすかもしれない。

人生の本当の問いは、決して「どの選択なら代償がないか」ではない。

そんな選択はそもそも存在しないからだ。

本当の問いは、

「自分は何を得るために、何を手放したいのか」

なのだ。


十一、だから今の私は、失うことを恐れていない

なぜなら、ますますこう分かってきたからだ。

喪失そのものは、必ずしも失敗を意味しない。

時にそれは、人生が自分のためにスペースを空けてくれているだけかもしれない。

ある関係が終わるのは、自分自身を見つめ直させるためかもしれない。

ある仕事が終わるのは、進む方向を選び直させるためかもしれない。

あるチャンスが消えるのは、別の道へ進ませるためかもしれない。

かつて強く望んでいたものが最終的に手に入らなかったとき、何年も経ってからこう気づくかもしれない。

あのとき手に入らなくて、むしろ良かった。

もちろん、すべての喪失が最終的に良いことに変わるとは限らない。

現実はそこまでロマンチックではない。

失ったものは、ただ失ったものであることもある。

失敗は、ただ失敗であることもある。

いくつかの過ちは、長い間傷跡を残す。

それでも、そこから何かを得ることはできる。

経験、判断力、しなやかさ、そして自分自身へのより深い理解。

これこそが、人生で最も不思議なところなのかもしれない。


結び

今、私はますますこう信じるようになった。

人生とは絶えず得ていくものではなく、絶えず交換していくものだ。

何かを得ながら、同時に別の何かを手放している。

一つの道を選ぶことは、他の無数の道を手放すことを意味する。

今の自分になるということは、なりえたはずの無数の「もう一人の自分」を手放すということでもある。

だから、

「なぜそれを失ったのか」

と問い続けるより、もっと意味があるのは、

「それが人生から去った今、この喪失から自分は何を得られるか」

を問うことなのかもしれない。

何千年も前から、先人たちはこの道理をすでに明確に語っていた。

ただ私たちは、たいてい自分自身でそれを一度経験して、初めて本当に理解するのだ。

何かを得れば、必ず何かを失う。

そして「捨得」という言葉の本当の意味は、私たちにもっと多くを得る方法を教えることではなく、ようやく穏やかにこう受け入れられるようになることなのかもしれない。

人生とはもともと、選び続け、取捨し続け、失い続け、そしてまた新しく得続ける、その繰り返しの過程なのだ。

何かを失って初めて、新しい何かが入ってくる。

ある道が行き止まりになって初めて、別の道を選ばざるを得なくなる。

ある人が去っていって初めて、私たちは自分自身と再会する。

そして、当時は人生の心残りだと思っていたことも、遠く歩いてきてから振り返ると、気づくのだ——

それはもしかしたら、人生が別のかたちで私に贈ってくれた、一つの贈り物だったのかもしれない。

よくある質問

「舍得(しゃとく)」とはどういう意味ですか?

「舍得」は中国語の言葉で、捨(しゃ=捨てる)と得(とく=得る)を組み合わせた造語です。捨と得は最初から同時に存在する、という考え方を表しており、経済成長から趣味の収益化まで、あらゆる選択に通底する原理として本エッセイで使われています。

「得ることは失うこと」は中国の古い言葉ですか?

中国の古いことわざに通じます——「塞翁が馬」、「魚と熊の掌は両方は得られない」、「得失」という言葉。また西洋にも「You can't have everything」という類似の表現があります。

趣味を仕事に変えると、なぜ情熱が消えてしまうのか?

お金が入ると、作る前に考える問いが「この作品を作りたいか」ではなく「この作品でお金を稼げるか」に変わる。作品はどんどん「仕事」らしくなり、却って出来も落ちていく——本エッセイの筆者が Douyin で実際に経験した通りです。

外向性の人は内向性の人に本当に「優位」なのですか?

いいえ。外向性は社交力を得るが、時間とエネルギーを多く消費する。内向性は深い集中と一人の時間を得るが、友人関係が狭くなる傾向がある。両者は「優劣」ではなく、有限な時間を何に使うかの異なる交換条件にすぎません。

「塞翁が馬」は具体的にはどういう話ですか?

「老人が馬を失う——それが災いかどうかは誰にもわからない」。ある老人の馬が逃げて、皆が同情した。やがてその馬が立派な駿馬を連れて帰ってきて、皆が祝福した。老人の息子がその馬に乗って骨折し、皆がまた同情した。戦争が起きたとき、息子は出征できずに生き延びた。失うことと得ることは、十分時間が経たないと本当の姿が見えません。

人生の選択で一番意味のある問いは何ですか?

「この選択はいいか」「代償のない選択はあるか」という問いではありません——そんな選択はそもそも存在しません。本当に意味のある問いは「何を得るために、何を手放せるか」です。

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